「出口、見えてますか?」ヨハネ5 章1~15 20250907
- koshigaya0
- 10月1日
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9月に入りました。9月、10月は、平年より気温が高いと予想されています。真夏日も続きそうです。出口が見えません。ウクライナやガザの戦争も出口が見えません。出口がない、見えない、これは人にはつらいことです。今日お読みした聖書の箇所にも「出口」を失っていた人が出てきます。
約2000年前、現在のイスラエルのエルサレムでの出来事です。ベテスダという池がありました。池の周りには病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだが麻痺している人たちが大勢、横になっていました。その池の水が時々動き、その時に、真っ先にこの池に入った人は、どのような病気でもいやされる、という言い伝えがあったからです。そこに、38年も病気にかかっている人がいました。「38年間も」「も」とあえて強調されています。まさに彼は出口のない、人生を歩んでいました。また彼は「孤独」で「敗北続き」でした。
しかし、「主イエス」によって出口が与えられたのです。主イエスは彼を見て「良くなりたいか」、「床を取り上げて歩け」といわれました。そして彼をいやされたのです。そして彼の人生に出口を与えてくださいました。主イエスは、私たちにも出口を与えてくださる方です。私たちも出口が見えない時が来ます。例えば思いもかけないような、試練、また「罪」という問題もあります。このいやしの出来事は安息日の論争を引き起こしました。ユダヤ人にとっては一人の人の回復より、規則を守ることが大切だったです。そして彼らは妬みのために主イエスを十字架に架けました。それらは人の罪の故です。それは人には解決できない出口のない問題なのです。ですが、主イエスはその罪も出口を与える方です(Ⅰヨハネ1:7)(ローマ8:1)。
私たちはこの主イエスを信じましょう。主イエスは今も、私たちに「良くなりたいか」と語ってくださる方なのです。
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