top of page
インマヌエル
越谷キリスト教会
礼拝メッセージ
「私たちを見ておられる神」26/6/7
出エジプト3章7~12節 日本で初めて訓練された看護師を主人公としたドラマが放映されています。その中で看護師は患者の方々をobserve(観察)とでてきます。聖書の神は私たちをオブサーブしていてくださる神です。今回の箇所は出エジプトの最初の箇所です。この箇所から聖書の神について学んでみましょう。 ●聖書の神は私たちの生涯の土台 聖書の神は私たちの生涯の土台です。西洋音楽の音階はドで始まります。ドは「ドミヌス」のドで「主」という意味と言われます。これは聖書の神を示します。聖書の神は創造者であり、世界の土台です。そして私たちを造られ、お互いの生涯を導かれる方です。その神は私たちの人生に真のコンパスを与えます。その意味で私たちの生涯の土台なのです。 ●聖書の神は私たちを愛しておられる方 聖書の神は私たちを愛し、私たちを見て、助け、導かれる方です。当時、イスラエルの民は奴隷として苦しめられていました。神は、その民のことを決して忘れておられませんでした。その悩みを見、彼らの叫びを聞き、痛みを知っておられました。そして彼らの叫びが主に届き、主は彼らを救うた
「復活の主にある希望」
ヨハネ20:1~20 今年のイースターの朝を迎えました。寒さが厳しいヨーロッパでは春の訪れは大きな希望でした。その希望とは主イエスがメシヤとして聖書の預言どおり、この世界に来られたこと、そしてその主イエスが、復活されたことです。この希望は根拠ある希望なのです。 ●私たちは希望の見えない世界に生きている 主イエスが復活された朝、マグダラのマリアと他の女性たちが墓に来ます。主イエスのご遺体はありませんでした。ヨハネとペテロも来ます。彼らは復活を理解することができませんでした。他の福音書は驚いたとあります。一人残ったマリアが振り向くと、復活された主イエスがおられました。しかし、彼女はそれが主イエスだとわかりませんでした。「わからない」「理解できない」とは私たちの現実の生活にも多くあります。そして希望を失います。 ●私たちは、主イエスの復活という確かな希望がある。 復活は聖書に記された約束です。聖書を彼らは理解していませんでした。創世記22章、ヨナ書、詩篇16篇などはそれを示唆しています。何より、主イエスご自身が、復活を預言しておられました(マルコ8:3
神の国トーク
「神の国トーク」 マルコ福音書10章13-16節 国を背負っての冬季オリンピック、国を良くするためにとの今回の突然の選挙。これら重なりました時事に私たちも先週から少しお疲れ気味ではないでしょうか。私たちの国籍は神の国にあります。私たちは神の国のパスポートを所持し人生行路を旅しています。「通路支障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸管に要請する」(パスポートの外務大臣印)と記されたこの世のパスポートのように、神の国パスポートにも主イエス印があります。そして主イエスに召しだされた私の仕事はこの「関係諸管」であると認識しています。この神の国の国家公務員職務?を全うさせていただきたい。 この神の国とはどんな国か、聖書に聞いてみます。 〇神の国に住む人はどんな人 お働きの終盤、主イエスは弟子訓練を急がれ、十字架宣言、本当のリーダーシップを示されますが順位争いに呆ける彼らはその胸中いざ知らず。そこへ企みのあるパリサイ人、また幼子に祝福を求める人々、金持ちの青年、いろん
「希望の若枝・主イエス」 イザヤ11:1~10 2025.12.7
今年もアドベントのシーズンを迎えました。この年を振りかえると一つ心に留まる光景があります。それは戦争の傷跡です。特にパレスチナのガザ、ウクライナでもそうでしょう。このイザヤ書にそのような世界の現実が示されています。このイザヤ書は主イエスへの預言も多く含まれています。この11章には「希望の若枝としての主イエス」が記されています。 ●困難な世界の現実 1節には「エッサイの根株から新芽が生え」とあります。イスラエルは自らの罪のために国が滅ぼされる経験を何度もしました。木々が切り倒されて根株しか残っていないという全く絶望的な状態でした。歴史を考える時、そのような世界でも日本でもそのような光景は繰り返されてきました。同時に「心の焼野原」という状態が人にはあるのではないでしょうか。 ●ですが、神にある希望がある。それが主イエス 世界は切株のような現実があります。しかし、1~2節は希望の預言です。その切り株から、芽が出るのです。「エッサイ」というのはダビデ王の父、その子孫から、ダビデより遙かに勝った王、全人類の救い主イエスが来られる、という預言です。この若枝な
「世界で最も大切な質問」 マルコ8:27~33 2025/11/2
世の中には「自分は何をすべきか」「自分は何者なのか」「人は死んだらどうなるのか」という根本的な問いがあります。ですが、それらに優って重要な質問があります。それは29節の「わたしをたれだと言いますか」という主イエスの弟子たちへの質問です。 ①質問の中身「主イエスとはだれか」 8章はエルサレムでの最後の一週間を前に、実質的に主イエスの生涯の終わりに近い時です。3年以上寝食を共にしてきた、弟子たちとの旅の「途中」で主イエスはこの質問をされました。弟子たちには唐突だったかもしれませんが、主イエスにとっては「遺言」の一つであり、弟子たちへの最終試験ともいえる質問がこの「わたしをだれだといいますか」という問いでした。 ②この質問の重要性「救いに関する事」 この主イエスの質問は、「人の救い」に関する事でした。ペテロが「あなたはキリストです」と答えます。キリストとはメシヤ(救い主)です。ペテロ達はメシヤが来てローマ帝国を滅ぼし、幸せを与えてくれる存在だと信じていました。主イエスがそのキリストだとペテロは告白したのです。ですが真のメシヤとは十字架の死と復活(31)
「出口、見えてますか?」ヨハネ5 章1~15 20250907
9月に入りました。9月、10月は、平年より気温が高いと予想されています。真夏日も続きそうです。出口が見えません。ウクライナやガザの戦争も出口が見えません。出口がない、見えない、これは人にはつらいことです。今日お読みした聖書の箇所にも「出口」を失っていた人が出てきます。...
bottom of page